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ラテンアメリカの島国キューバは、コロンブスの到達の後スペイン殖民市として栄え、その後20世紀に入り、アメリカ資本主義の影響を強く受ける。文豪ヘミングウェイがキューバをこよなく愛し、首都ハバナに移り住んで、『老人と海 』をはじめとしたその作品のほとんどをこの地で書き上げたのはよく知られているところである。
アメリカによる実質的な支配と経済搾取にフィデル・カストロが反旗を翻し、2年余りの激しいゲリラ闘争の末、1959年にキューバ革命を達成。以後、キューバはアメリカとの危うい緊張関係を保持しながら、社会主義国としての体制を維持してきた。
キューバ革命の立役者として、カストロとともに忘れられないのがチェ・ゲバラ(エルネスト・ゲバラ)である。ゲバラは1928年にアルゼンチンに生まれ、大学卒業の後、1956年メキシコでカストロを指導者とするキューバ人グループに加わる。
ゲバラは程なくゲリラ戦士としての卓越した能力を発揮し、カストロの右腕となってバティスタ政権の腐敗と蛮行を糾弾、反政府運動を主導し革命へと導く。社会の因習に縛られず、私心なく革命に身を投じたゲバラは、その精悍かつ端正なルックスも相まって、伝説的なカリスマ戦士として今もなお人々の心を引き付けている。
キューバ人でないゲバラが、キューバ独立革命にエネルギーを注いだ背景には、
彼の青春期の南米放浪旅行の体験が色濃く投影している。ゲバラ(エルネスト)は幼い頃から喘息に苦しみ、自分の病気を理解したいという欲求もあって医学を志すが、その学生時代は、国家主義者や左翼による政治運動がラテンアメリカ各地で台頭し、政治的にも経済的にも南米全体が混乱していた時期だった。好奇心と冒険心に溢れたエルネストは、大学の試験終了後23歳の時(1951年)、親友のアルベルト・グラナドとともに荷物をまとめて500CCのノートン・バイク“ポデローサ号”(猛者)にまたがり、ブエノスアイレスを出発して、ペルー、コロンビア、ベネズエラを訪れる無鉄砲な南米放浪の旅に出る。出発間もなくバイクは故障し、その先はヒッチハイクで旅を続ける。未来への夢と希望に高鳴る胸を押さえて旅立ったエルネストが各地で目にしたのは、ハンセン氏病療養所の悲しい実態や、世界最大の銅山チュキカマタで過酷な労働を強いられながら賃金を搾取され、極貧にあえぐ哀れな先住農民や労働者の姿だった。大国の殖民支配に懐疑し、抑圧されたラテンアメリカの解放という壮大な夢を抱くに至る。
ゲバラの革命家としてのその後の人生を決定づけたこの青春期の流浪の様子は、ゲバラが記した「チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記 」を原作として『モーターサイクル・ダイアリーズ』として映画化され、若手俳優ガルシア・ベルナルがみずみずしい演技でゲバラ役を演じた。ペルーのサン・パブロにあるハンセン氏病療養所で働いていたエルネストが、滞在最後の晩、自分の誕生日をハンセン病患者たちと一緒に祝おうと、周囲が止めるのを聞かずに対岸にある患者たちの隔離場所に向かって夜のアマゾン川を必死に泳いで渡る。虐げられた人々とともにあろうとしたゲバラの原点を象徴的に描いたシーンとして印象に残る。
ゲバラは、キューバ社会主義国家建設の礎を築いた後、根っからの革命家としてコンゴに新たな活動の場を求め、さらに続いてボリビアに渡りゲリラ軍を指揮する。このボリビアで政府軍に捕らえられ、アメリカの指示により1967年10月9日処刑される。ゲバラの死体の所在は長らく不明のままだったが、1995年ボリビアで埋葬場所が発見された。遺体はカストロが迎えるキューバに帰還し、1997年10月17日、新しく建設された霊廟で追悼式が盛大に行われた。
複雑な利害の対立を背景として、同一民族が内戦状態に陥る例は歴史上枚挙に暇がないが、最終的に国家が分断されてしまった場合、そうした悲劇に遭遇した人々の心情は如何なるものだろうか。東西ドイツは1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌90年に統一が成し遂げられたが、朝鮮半島では第二次世界大戦とその後の朝鮮戦争により、北と南で異なる国家体制に分かたれたまま、いまだ祖国統一がなされないでいる。かつて自由に行き来できた地に赴くことがかなわず、親族や友人との交流も閉ざされた悲痛さは、当事者になってみなければ理解しがたいものに違いない。
南北朝鮮の軍事境界は北緯38度線として知られるが、この軍事境界線に沿って流れているのが、「臨津江」という河。朝鮮北部の山地を源流とし、南西に下りながら漢江と合流して黄海に注ぎ込む。南北分断を象徴するこの河をモチーフとして、北朝鮮において1954年に作られたのが『臨津江(リムジンガン)』という歌で、高宗漢が作曲し、朴世泳が作詞した。「リムジンガンの水は南北を静かに流れ、水鳥は川面を自由によぎるのに、なぜ我々は故郷へ帰れないのか。リムジンの流れよ答えておくれ」と詩は綴られる。
そして朝鮮民族の哀切な想いがこもる『臨津江』に魅せられた松山猛が日本語詞を書き、ザ・フォーク・クルセダースが1968年に歌ったのが『イムジン河 』である。加藤和彦によってカレッジフォークの曲調に変わり、反戦のメッセージも色濃く滲むため、当時の若者世代の心情や文化にマッチした歌だったと思われる。しかし東西冷戦下のデリケートな時代で、朝鮮総連がオリジナルと異なる詞に横やりを入れたりした末、この曲は程なく発禁処分となる。
その後何度か別の歌手によって再リリースされたが、2004年に製作された井筒和幸監督の映画『パッチギ』のテーマ曲に据えられ、再び脚光を浴びることになった。映画では主人公松山康介(塩谷瞬)が、一目ぼれした在日朝鮮人の女子高生キョンジャ(沢尻エリカ)と親しくなるために、
『イムジン河』をギターで憶え歌う。最初は康介がこの曲を演奏したり、キョンジャと交際することを寛容に見ていたキョンジャの親族だったが、
ある日、日本人高校生とのトラブルによって朝鮮人居住区の若者が命を失ったことを契機として態度が変わる。苦難の歴史を朝鮮民族に与えた日本人に、民族分断の悲しみや植民地支配を受けた屈辱の思いなどがわかるわけもなかろうと言い放たれる。日本人と在日朝鮮人を遮る「超えがたき河」を痛感し、涙ながらに康介がラジオで歌う『イムジン河』がキョンジャたちの耳にも届く。
2007年9月27日、映像ジャーナリストの長井健司氏が、取材中に軍治安部隊に至近距離から銃撃され死亡した。銃弾を受け、仰向けに倒れながらも最期までビデオカメラを手放さず、撮影を続けようとしていた姿が明らかにされ反響を呼んだ。
ミャンマーは「ビルマ」という国名でおなじみだったが、1989年に軍事政権が「ミャンマー」に改め、以後軍政を強化しながら民主化運動を厳しく封じ込めている。ミャンマーの現代史をさかのぼれば、帝国主義が席巻する中、周辺アジア諸国と同様にイギリスに植民地化され、第2次世界大戦開戦後、大東亜共栄圏を唱えた日本軍と連合国が対決し、複雑な覇権争いの渦に巻き込まれる。各国の勢力が合従連衡しながら、激しい戦闘が5年にわたり繰り広げられ、ビルマ戦線における日本人の犠牲者は実に18万人にも及んだと伝えられる。
この第2次大戦時のビルマを舞台として、戦争の悲惨さを訴えた小説が竹山道雄の『ビルマの竪琴』である。
1947年から3年にわたり、児童雑誌『赤とんぼ』に連載された。一高教師だった竹山は、多くの教え子が戦地で帰らぬ人となったことを嘆き、鎮魂の思いを込めてこの作品を児童向けに綴った。昔は小学校の課題図書として、この『ビルマの竪琴』が必ずのように掲げられていたものである。市川崑監督で2度映画化もされている。
物語の主人公、水島上等兵の所属する日本部隊の隊長は音楽学校の出身で、
心の慰めとして隊員たちにしばしば歌を愛唱させた。中で水島は音楽センスにたけ、隊長の求めに応じて、素晴らしい腕前でさまざまな曲の伴奏をたちどころに作ってしまう。とりわけ水島が得意としていたのが竪琴による伴奏だった。そのうちに戦局が悪化し、部隊は山から山へ敗走を余儀なくされる。そして、危険地帯にさしかかると、水島がビルマ人になりすまして斥候(偵察)に出かけ、安全の合図に竪琴を弾くのだった。停戦後、敗れた水島の部隊全員がイギリス軍の捕虜となるが、抵抗を続ける別の日本部隊の残党に投降を説得しにいく役目を水島が負い、当地に赴く。しかし水島はいつまで立ってもムドンにある捕虜収容に戻ってこず、行方知れずとなる。
物語の前段のクライマックスで、日本兵とイギリス兵が森の中で対峙しながら、いつのまにか一緒になって『埴生の宿』を合唱する感動的な場面がある。埴生の宿とは、“土を塗って作った貧しい小屋”のこと。この歌は原題『Home, Sweet Home』というイングランド民謡で、原詞はアメリカ人、曲はイギリス人の作による。日本語詞では、「埴生の宿もわが宿 玉のよそいうらやまじ」と続く難解な歌詞だが、故郷への思慕を切々と表現したもので、原詞に忠実に訳されているという。旋律も美しく郷愁をいざなう。
水島の姿が消えて数ヵ月後、収容所の日本兵たちが時々見かけるビルマ僧がどうも水島に似ていると噂になる。兵士たちは、念願の本土帰国が決まった後のある日、柵越しにこの僧に向かって「埴生の宿」を全員で合唱してみた。するとその僧は竪琴で『埴生の宿』を弾き出す。やはり水島だったと分かって歓喜する日本兵たち。「水島、一緒に日本に帰ろう!!」と口々に叫ぶ。しかし水島は続いて『仰げば尊し』を演奏した後、頭を下げて去っていってしまう。
実は水島は、残党の投降説得に失敗してからムドンへの帰路、夥しい数の日本兵の死体を至るところで目の当たりにして心を激しく痛めていた。そしてひとり僧となってビルマに骨を埋め、この異国の地に散った無名の日本兵たちの霊を生涯弔い続けることを決意していたのだった。
中学生の頃、下校の音楽として毎夕校庭に流れていたのが
『風と共に去りぬ』の主題曲「タラのテーマ」だった。1975年(昭和50年)秋、日本テレビがこの『風と共に去りぬ』を前・後編に分け2週にわたり放映した。同映画の世界で初めてのテレビ放送として話題になったが、テレビを見終わって、主演のヴィヴィアン・リーの美しさは印象に残りながらも、彼女が演ずるスカーレット・オハラの気性の激しさや自分勝手な振る舞いにあまり共感できなかった覚えがある。100年前の時代の外国女性の半生記という設定も、中学生にはあまり興味をそそられるものでなかった。
数年後、通っていた大学の大講堂でこの映画の無料上映会が催され、友人と連れ立って再び観た。途中に休憩をはさみながら大型スクリーンで4時間に近い前編、後編の一挙上映。終了後、自分も含め会場にいた学生の多くが、深く息つきながら感動に浸っていた様子だった。動乱の時代を激烈に生きたスカーレットの波乱万丈の人生、取り巻く人々との抜き差しならぬ愛憎、人の心や運命のよるべなさを描いた壮大なこの大河ストーリーが、名作として世界中で愛され続けていることが理解できた気がした。
原作は平凡な主婦だったマーガレット・ミッチェルが、
10年の歳月を費やして書き上げた同名の小説『Gone With The Wind』。舞台は19世紀中頃、南北戦争時のアメリカ・南部ジョージア州が中心である。1936年に出版されるやたちまちのうちにベストセラーとなり、即座に映画化の話が持ち上がる。映画は製作の途上から注目が集まり、1939年に公開され史上空前の大ヒットとなった。アカデミー賞9部門を制覇している。
スカーレットの生まれ故郷は、ジョージア州の架空の町「タラ」。綿花栽培で成功した大農園の娘として生まれ育ったスカーレットにとって、タラの雄大な大地こそが、どんな困難にも屈しない彼女の強さの原点となっている。前編の最後の場面、戦火のアトランタから命からがら帰りついた生家は北軍に蹂躙され、見る影もなくすっかり荒廃・没落していた。かつての裕福な生活とは一転して、明日の食料にも事欠く貧窮の中、タラの大地に立ちすくみながらスカーレットは、“As God is my witness,I'll never be hungry again!”と涙ながらに誓う。
そしてラストでは、南北戦争に惨めに敗北し、愛するレット・バトラーにも去られ悲嘆に泣き崩れるスカーレット。その時瞬間的に脳裏をよぎったのが、故郷タラへの想いだった。あっという間に気持ちを奮い立たせる。“Tara! Home. I'll go home, and I'll think of some way to get him back! After all, tomorrow is another day!(タラに帰ろう、家に帰ろう、そうしたら彼を連れ戻す方法を何か考えつくかもしれない。明日は明日の風が吹くわ!)”
1912年4月10日、タイタニック号は、当時世界一の豪華客船として華々しい注目を浴びながら、イギリスのサウサンプトン港からアメリカ・ニューヨーク港へ向けて処女航海に出帆。ところが出航5日目の4月14日夜に氷山に衝突、翌15日未明にマサチューセッツ州ボストンの真東1610Km、ニューファンドランド、セント・ジョンズ沖604Kmで沈没した。
乗員・乗客2,200人以上のうち、1,500人余りが死亡するという史上最悪の海難事故となったが、
救難無線の発信の遅れや救命ボートの装備数が少なかったことが結果的に悲劇を拡大した。事故後の検証では、タイタニック号は事前に周辺海域に氷山が数多く流出しているとの警告を、航海中の他船などからたびたび受信していたにもかかわらず、船長をはじめ乗員らが深刻に受け止めることなく、衝突直前まで高速で航行を続けたことが最大の事故原因として指摘されている。
多数の犠牲者を出した海難事故ではありながら、生存者もまた705名にのぼったことが事故の様子を生々しく後世に伝えることとなり、多くの証言に基づくノンフィクションや著作が刊行されている。
この事故では、衝突から沈没まで2時間あまりの猶予があった。そのお陰で、数に限りある救命ボートへ女性・子供を優先しながら乗船させることが可能となったが、逆に乗船がかなわなかった残りの人々にしてみれば、闇夜の船上で2時間にわたって自らの命のカウントダウンを実感し続けていたことが痛ましい。心千切れる様な家族の別離の光景も繰り広げられたに違いない。
この事故をモチーフにした映画も複数製作されているが、記憶に新しいのは1997年のジェームズ・キャメロン監督作品『タイタニック』。総製作費2億ドルという巨費を投じ、タイタニック号の絢爛豪華さを再現。レオナルド・ディカプリオが画家志望の青年ジャックに扮し、上流階級の娘ローズ(ケイト・ウィンスレット)と行きずりの恋に落ちる。セリーヌ・ディオンの歌う主題曲をバックに、ふたりがタイタニック号の甲板の舳先で海面に向かって佇むシーンが話題となった。衝突から沈没が始まるまでの乗客のパニックぶりや、漆黒の闇夜、船体が真っ二つに裂けて人々が海中に落下していく悲劇も臨場感いっぱいに表現。新天地アメリカに希望を託してタイタニックに乗り込んだジャックだが、絶望的な事態にあってなお、ローズを守り抜こうとしながら力尽きる。ラブストーリーとしても感涙を誘い、アカデミー賞11部門を制した。
イスラエルとユダヤ人の歴史を概観した時、その壮大かつ過酷で数奇な運命に圧倒される。ユダヤの歴史をたどるには、旧約聖書に記された伝承や神話をひもとくことから始まるが、『創世記』によると始祖アブラハムは、「パレスチナは神がイスラエルの民に与えた土地である」との啓示をヤーヴェ(エホバ)神より受け、75歳の時一族を引き連れ、長い流浪の末に紀元前1500年 頃、「約束の地」カナン(パレスチナ)へ到着する。
その後、アブラハムの子孫は故郷を思慕しながらも、生活のため肥沃な土地を求めてカナンを離れ、エジプ トに移住。
しかしエジプト王朝の支配が変転し、ユダヤ人は奴隷として虐げられることになる。紀元前1230年頃、エジプトでの苦しい奴隷生活から逃れるべく、指導者モーゼに引き連れられた6千ものユダヤ人が、シナイ半島の砂漠を40年に渡りさまよう苦難の旅の末、ついに約束の地カナンへの帰還を果たす(「出エジプト記」)。
この旧約聖書の「出エジプト記」における預言者モーゼの物語は、1925年にセシル・B・デミルによって映画化された(『十誡』)。その後1956年にデミルは、当時として破格の1350万ドルという巨費をかけて壮大なスペクタクル映画『十戒』として再映画化。チャールトン・ヘストンが人々を力強く唱導するモーゼを演じ、一行が脱出の途上で紅海の海底を渡り歩く奇跡の場面や荒野をさすらう苦難の旅の様子など、聖書に伝えられるエピソードを忠実に再現した。
何といっても最大のクライマックスは、
当然ながらモーゼが十戒を授かるシーン。現代のSFX技術からすれば稚拙な特撮に映るだろうが、シナイ山上で神と何十日にもわたって問答を続けた末、ついに十戒が刻まれた2枚の石板をヤーヴェ神から託され、山を降りてくるモーゼの迫力に満ちた姿が見事だ。
そして美しいカナンの平野が、とうとうユダヤの人々の目の前に開けるラストシーンも印象的である。
シナイ山の比定地としては、シナイ半島南部の山ジェベル・ムーサーが有力視されており、今も世界中からたくさんの人々がモーゼの足跡を辿ろうと巡礼に訪れるという。
キューバをこよなく愛し、その晩年を彼の地で暮らしたヘミングウェイだが、若き日にはスペインに大いに関心を抱き、スペイン内戦(1936年〜1939年)に義勇兵として参加してもいる。
第一次大戦後の混乱期、スペインでは左派人民戦線政府に対してフランコ将軍を中心とした右派勢力が反乱を起こし、全土が内戦状態に陥った。行動派のヘミングウェイは人民戦線政府を支援する義勇兵として参戦したが、この時の体験をもとに書き上げたのが『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)』である。
主人公の大学教授ロバート・ジョーダンは、
人民戦線政府を支持するためアメリカからやってきた。爆破技術のスペシャリストとして人民戦線側ゲリラと共闘し、右派の要衝となっているマドリッド北部山峡の鉄橋爆破を画策している。右派ファシスト軍にスペイン市長だった父を殺害された若く美しいスペイン女性マリアも、同じゲリラ部隊に加わっていた。2人は激しい戦火の中、行動を共にするうちに恋仲になり結ばれる。鉄橋爆破の決行日、突然現れた敵方戦車部隊にロバートは足を砕かれ動けなくなる。泣き叫ぶマリアを一行とともに退かせ、隊列からひとり外れたロバートは薄れゆく意識の中、敵軍に向けて引き金をひく。
この小説はゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンという当時のハリウッドの人気絶頂のスターを組み合わせ、パラマウント創立40周年記念大作として1952年に映画化された。
40年近く前香港に住んでいたことがあるが、ある日香港島の観光地として有名なビクトリア・ピークに家族で出かけた。とある地点で「ここが『慕情』の舞台となったところだ」と親から教えられたが、その当時は幼くて『慕情』という映画も知る由なくピンとこなかった。長じてこの名作を初めてビデオで観た。ヒロインの女医が、勤務する病院の裏手の丘を少し登ったところで、ウィリアム・ホールデン演ずる新聞記者と人目を忍んで逢瀬を重ねるシーンに至り、「あの時のあの場所」に合点がいって懐かしい感慨にとらわれた。
今でこそ中国の国土として返還がかなったものの、香港は理不尽にもアヘン戦争により英国の植民地とされ、太平洋戦争で一時期日本軍の占領下に置かれ、さらに再び英国支配に長らく服するという複雑な歴史を抱えている。
『慕情』のヒロイン ハン・スーイン(ジェニファー・ジョーンズ)は、
英中混血の美しい女医。中国人だった夫を戦争で亡くしている。ある日病院のパーティーで、アメリカ人新聞記者マーク(ウィリアム・ホールデン)と知り合い恋におちる。
病院裏手の丘の樹の下で逢瀬を重ね、海水浴に出かけてお互いを語り合う。マークには別居している妻がシンガポールにいる。スーインに求婚したマークだが、シンガポールの妻は離婚を承諾しない。そうこうしているうちに朝鮮戦争が勃発、マークは従軍記者として前線に赴く。マークの帰還を待ちわびるスーインだが、彼から届いた手紙を読んでいる最中に、マークの死亡を伝える記事が目に入る。
極めてシンプルな悲恋ストーリーながら、「東洋の真珠」と称された香港の美しい風景と主題曲『Love is a Many Splendored Thing(恋は素晴らしきもの)』の甘美なメロディーが、この映画を名作に仕立てた。
ロケ地そのものが印象深い映画といえば、何といっても『ローマの休日』。精悍なグレゴリー・ペックと可憐なオードリー・ヘップバーンの束の間のラブストーリーのバックには、ローマの街並みや観光スポットが数多く登場する。映画公開から50年以上がたつが、ローマを訪れ「スペイン広場」に行けば、劇中のプリンセスと同じようにジェラートを頬張る観光客を必ず目にすることができる。
公開から50年以上がたった今も、テレビでの放映が繰り返される日本人の大好きな外国映画。
某国王女アン(オードリー・ヘップバーン)とアメリカ新聞社の支局員ジョー(グレゴリー・ペック)の淡く切ない恋物語で、ローマの観光スポットが随所に登場する。
ふたりが訪れるローマ市内の名所のひとつが「真実の口」。サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の柱廊に刻まれた海神トリトーネの彫像の口がそれで、嘘つきが手を入れると噛み切られるという言い伝えが中世から伝わっている。互いに素性を偽って接しているジョーとアン王女が、この「真実の口」の前に立つ。手が抜けなくなった風を装うジョーにだまされたと知って、怒り抱きつくヘップバーンが愛らしいことこのうえない。