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名作の舞台−国内編

『東京オリンピック』(市川崑 監督・1965年)

●マーカー地点:東京オリンピックの開会式が行われた国立競技場

アジアで開催される夏季オリンピックとしては、1964年の東京大会、1988年のソウル大会以来3回目となる北京オリンピックしかし中国のチベット抑圧政策が原因で、その聖火リレーが世界各地で大混乱している。他にも、北京市内の光化学スモッグによる大気汚染を敬遠して、マラソンの有力選手が出場辞退を表明したり、選手村の食事の安全性を懸念する声も上がるなど、開会前から前途多難な様相を呈している。

北京の次の開催地はロンドンで、その次の2016年の開催地として東京が立候補している。同五輪の開催には、東京のほかに、マドリッド(スペイン)、シカゴ(アメリカ)、ドーハ(カタール)等、5都市がすでに名乗りを上げており、これから2009年10月の決定に向けて、各都市の招致活動が活発化していく。

64年の東京でのオリンピック初開催にこぎつけるまでの道のりは、JOCのウェブサイトに詳しいが、戦後の荒廃から完全に立ち直ったことを内外に示す意味からも、日本国民の悲願であったことが窺える。そして競技者だけでなく、その後の日本の青少年や市民のスポーツ振興にも、東京オリンピックが果たした役割が絶大なものであったことが解る。

かつての東京五輪の記憶はかすかなものとなっているが、東京オリンピック その頃、世界の国旗を覚え、ほうきをバーベル代わりに、重量挙げのポーズを真似たりした。石原都知事は「青少年の心に夢を与える」ことを招致理由に挙げているが、市川崑が監督・製作した映画『東京オリンピック』を観ると、日本での初めてのオリンピック開催に、人々が皆夢中になった情景が蘇る。

この映画は、当時のオリンピック担当国務大臣だった河野一郎が試写で観て、「記録映画になっていない。」と酷評したことでも知られる。映画は一部修正を施したうえで公開されたが、結果的に日本映画史上空前の興行記録を打ち立て、カンヌ映画祭で国際批評家賞を受賞するなど高い評価を得た。市川監督のベスト作品との声もある。

「記録」よりも「描写」に力点を置いた構成で、首都高速道路の建設風景から映画は始まる。望遠レンズを駆使した103台のカメラで、アスリートとともに市井の人々の表情や動作がクローズアップされる。当時の実況が断片的に入るが、記録映画に不可欠なナレーションは、一部を除いてあまりない。マラソンシーンでは、落伍していく選手の姿を執拗に追い、その過酷さを表現する。対照的に、表情を変えずに淡々とゴールするアベベの圧倒的な強さを浮き彫りにしている。もちろん日本人選手の活躍や競技の緊張感、醍醐味もあますところなく描出している。東洋の魔女、棒高跳びのハンセンとラインハルトの死闘や男子1万メートルのデッドヒート等々。

しかし何より印象的なのは、開会式で古関祐而作曲のオリンピックマーチに乗って、白い帽子と赤いブレザーの日本選手団が、全参加国の最後に整然と入場してくる場面。いっせいに立ち上がり、拍手で迎える観衆。誇らしげに行進する選手たち。今見ても、胸が熱くなる。この日、国立競技場でこの光景を目の当たりにした人たちの感動は、いかばかりであったろうか。

『硫黄島に死す』(城山三郎 作・1963年)

西中佐が率いた戦車部隊が米軍に激しい抵抗を試みた硫黄島・大坂山

2006年、クリント・イーストウッド監督映画『硫黄島からの手紙』と梯久美子のノンフィクション『散るぞ悲しき』が話題を呼んで、一種の「硫黄島ブーム」が起こった。両作品とも、太平洋戦争末期に激しい戦闘が繰り広げられた硫黄島戦線の日本側最高指揮官、栗林忠道中将を主人公として、その類まれな指揮能力と部下や家族に対する愛情細やかな人柄を描いた。

硫黄島で戦死したもうひとりの著名な日本の軍人として、西竹一中佐がいる。貴族の出自を持ち、1932年のロサンゼルス・オリンピック馬術競技で金メダルを獲得して、一躍日本国民のヒーローとなった。端正な容姿とスマートな所作で日本人ばかりでなく、欧米でも「バロン西」として誉れ高く、当時のハリウッド女優にも人気があったという。

映画『硫黄島からの手紙』では、硫黄島に死す伊原剛志がこの西中佐を重要な役どころとして演じたが、他に西中佐を取り上げた物語として、昨年亡くなった城山三郎の小説『硫黄島に死す』がある。1963年の文藝春秋11月号に発表され、大きな反響を呼んだ。経済小説の先駆者として知られる城山は、17歳で海軍特別幹部練習生となった最中に終戦を迎えており、気骨ある戦時世代を主人公とした作品や戦争体験に基づく小説も多々ある。

この短編では冒頭部分を中心に紙幅の半分以上が、硫黄島へ向かう途上の西のさまざまな回想で占められている。愛馬ウラヌス号と戦ったオリンピックに思いをめぐらし、習志野での騎兵学校・連隊時代や北満での束の間の家族との生活を振り返る。本人に直接取材したのかと錯覚してしまうような微細なエピソードが連ねられ、豪放磊落さと人間味の同居した西の魅力的な人柄を描き出している。

硫黄島戦線は日本軍の本土防衛の最後の砦として、国民の切実な勝利の願いを背負ってはいたものの、局面はすでに絶望的で、人員や物資の調達もままならない硫黄島へ派遣されることは、兵士達にとっては死地へ赴くことを意味していた。一説には、アメリカ社交界でも花形だった「親米派」の西を疎んじて、軍首脳部が玉砕確実な戦地に追いやったという話もある。栗林中将の巧みな戦略によって、日本軍は持久戦に持ち込み予想以上の抵抗を展開したが、やがて西の率いる部隊も窮地に追い詰められ、西は自らに拳銃を放ち最期を遂げる。

西の死にあたっては、西部隊がひそんでいる洞窟に向かって米兵が、「西さん、出てこい。あなただけは助けたい」と何度も投降を呼びかけたものの、西は応じず部下と死をともにしたという真偽定かでない美談が伝わっている。『硫黄島に死す』ではこの点についてさらりと触れられているだけで、リアリティを重視した城山に、この逸話は事実とは映っていなかったようである。

『野菊の墓』(伊藤左千夫 作・1906年)

「野菊の墓文学碑」/千葉県松戸市下矢切

『野菊の墓』は千葉県出身の伊藤左千夫が1906年(明治39年)、ホトトギス』に発表した小説である。「後(のち)の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。」という書き出しで、主人公の政夫が、十数年前の多感な少年時代の純愛を回想する。

15歳(満年齢で13歳)の政夫と17歳の民子のただならぬ仲のよさは、ふたりがいとこ同士であることや、民子の方が2歳年上ということもあって、ことさらに周囲から好奇の目を向けられ、偏見を招く。野菊の墓 (集英社文庫) ある日政夫の母親の言いつけで、ふたりで近くの山畑に綿を採りにいくが、この時互いの恋情がはっきりする。しかし家に戻ってくるのが夜も遅くなったため、それまで寛容だった母親の態度が変わり、ふたりは引き離される。絶望した民子は意にそぐわない結婚をさせられた末、傷心のうちに病死してしまう。息を引き取るとき、その手には紅絹(もみ)の切れ端に包まれた政夫の写真と手紙が握られていた。

物語の舞台は「松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、野菊の如き君なりき小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所」。今でこそ、この地域は東京のベッドタウンとしてすっかり市街化しているが、当時は封建的な空気が色濃く漂う農村であり、山道に咲く野菊やりんどうをはじめとして豊かな自然に覆われていたことが、作中の表現とともに、映画化された『野菊の如き君なりき』を通じて分かる。

ふたりの生涯の別れとなった場所が矢切の渡し場で、小説中、特にこのくだりはふたりの切ない感情の機微を細やかに描いて胸を打たれる。夏目漱石は、この小説を「自然で、淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があって(中略)あんな小説ならば何百編よんでもよろしい」と絶賛したそうだ。
「矢切の渡し」は細川たかしのヒット曲で有名となったほか、映画『男はつらいよ』で、寅次郎が放浪の旅からここを経て「とらや」に帰ってくるシーンでもおなじみだ。

『雨ニモマケズ』(宮沢賢治 作・1931年)

「宮沢賢治詩碑」/岩手県花巻市桜町

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』はよく知られているように、彼の死後発見された手帳の中に、メモ書きのようにしたためられていたものが、後に世に出たものである。上手とはいえない字で書き留められていて、何箇所か修正の跡も見られ、一部表記については誤記か、そのまま読むべきかの論争が学者の間で起こったりしている。

よっぽどの賢治ファンでなければ全編を諳んじることはできないだろうが、小学校の教科書等で取り上げられていたので、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」という冒頭部分や最後の「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」、途中の「東ニ病気ノコドモアレバ...」のくだりなど断片的ながら日本人なら誰にもなじみが深い詩だ。しかしこの詩を先入観を取り去って、まったく初めて読んだと仮定したら、最初は誰か身近な人の人物評を綴っているようにとらえてしまいそうだ。曰く「欲ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラツテイル」だの「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」。ところが最後に「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と締めくくられ、それまでの記述が自分の理想とする人物像や生き方を記していたということがわかるという、「どんでんがえし」的な妙味がある。

さらに、その理想像の描写がかなり具体的である。「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ」等々。一連の形容を通してイメージされるのは、体は頑健だが口数は少ない典型的な東北人タイプの男。人のためなら東奔西走どころか北や南にまで出かけていく行動力を持ちつつ、一方で「サムサノナツハオロオロアルキ」「ミンナニデクノボートヨバレ」る「裸の大将山下清風」の愚鈍な面もある。

賢治は熱心な法華経の信者であったが、この詩には農学者・教師として故郷花巻の農民のために尽くしぬいた彼の人生そのままに、「無私、利他の心、自己犠牲の精神」が投影されている。梅原猛はかつて外国で行った講演の中で、「宮沢賢治が日本の最高の文学者である」と述べたというが、1933年に37歳で亡くなるまで科学者、教育者、宗教者としても才気煥発だった彼が、早世していなければ他にどれほどの業績を残したことだろうか。

『知床旅情』(森繁久弥 作詞作曲・1960年)

「しおかぜ公園」/北海道目梨郡羅臼町共栄町

知床半島は2005年7月、一帯の豊かで特徴に富んだ生態系や、希少な魚類、動植物の重要な生息地であることが評価され、自然遺産として世界遺産に登録された。一躍世界にその名を示すこととなった知床だが、そもそも国内で知床ブームが起こったのはさかのぼること35年前、1970年に加藤登紀子が歌った『知床旅情』のヒットを契機としてだった。当時、国鉄が旅行客の拡大を狙って展開していた「ディスカバージャパン」キャンペーンと相俟って、文字通り『知床旅情』の歌に旅心を誘われて、人々が知床を訪れるようになったのだ。

この歌の原曲は、その10年程前に森繁久弥によって作られた。知床半島の番屋で、猫だけを相手に厳寒の一冬をすごす男の物語『オホーツク老人』 (戸川幸夫)に感銘を受けた森繁は、自らプロダクションを設立してこの小説を『地の涯に生きるもの』として1960年に映画化する。映画のロケは、北海道羅臼村(現羅臼町)を中心に同年の3月から7月まで行われたが、5ヶ月に及ぶ当地での製作にあたっては、村を挙げての協力が行われた。そして撮影が終了して羅臼の人々と別れるに際し、それまでの惜しみない協力に感謝を込めて森繁が贈った歌が、後に『知床旅情』として大ヒットすることになる『さらば羅臼』だった。
歌詞をあらためてなぞってみると、森繁の村民へ寄せた素朴な友情の念と羅臼を去りがたい感傷の気持ちが伝わってくる。

羅臼町のはずれにある海に面した小さな「しおかぜ公園」には、森繁の筆によるこの『知床旅情』の歌碑と、映画『地の涯に生きるもの』で主役を演じた森繁久弥をモチーフにした『オホーツク老人』の像がある。

『二十四の瞳』(壺井栄 作・1952年)

「岬の分教場」/香川県小豆郡小豆島町田浦

『二十四の瞳』は、小豆島の漁村にある岬の分教場へ赴任してきたハイカラな若い女性教師と12人の子供たちとの交流や、戦争の暗い時代に翻弄された人々の悲劇を写し出した。

壺井栄は1900年(明治33年)小豆島に生まれた。高等小学校を卒業後、二十四の瞳 デジタルリマスター2007郵便局や村役場に勤めながら、文学を志す。昭和27年に発表されたこの小説は、2年後に木下恵介監督、高峰秀子主演で映画化され大ヒットした。大石先生の教え子達に対する深い愛情や次々起こる哀切な出来事、瀬戸内の海辺の叙情豊かな風景は、何度観てもひたすら涙を誘われる。

作品に現れる「岬の分教場」は、明治7年に開校した田浦尋常小学校が原型とされ、閉校後の今も見学することができる。付近には、映画のロケとして使用されたセットをテーマパークとして改築した、『二十四の瞳映画村』がある。

『フラガール』(李相日 監督・2006年)

「常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)」/福島県いわき市常磐藤原町

炭鉱の町が閉塞の状況から脱し、見事に再生を果たしたケースとして福島県の常磐炭鉱の例がある。常磐炭鉱を経営していた常磐興産は石炭産業の行く末に見切りをつけ、常磐湯本温泉観光会社を設立して、観光産業に活路を見出そうとする。海外旅行が高値の花だった当時に「夢の島ハワイ」を演出したリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」(現「スパリゾートハワイアンズ」)の建設を企図する。

この常磐ハワイアンセンターの踊り子として、フラガール メモリアルBOX炭鉱町の再建に奮闘したダンサーたちを描いた映画が『フラガール』だ。日本アカデミー賞を初め、2006-2007年度の数々の映画賞を受賞するなど大ヒットした。生まれ育った故郷のために力を尽くしたいと健気な生徒たちと、東京からやってきた少しひねくれ者のダンス教師との次第に深まる交流が素直に感動できる。家族や友人との別離の場面に、劇場内のあちこちですすり泣きの声がもれていた。ラストのダンスシーンも圧巻で息を呑む。

ドラマならではの脚色が施されているのは当然だが、製作スタッフは当時の関係者を訪ね歩いて、綿密な取材を重ねたうえで物語を構成したという。それだけに、炭鉱業への誇りを捨てずにヤマの仕事に執着し続ける者たちと、時代の変化を受け入れ、新しい潮流に身を委ねようとする人々とで町が二分される様子が心に迫る。

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