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昭和の宰相

近衛文麿 東條英機 鈴木貫太郎 吉田茂 鳩山一郎 岸信介 池田勇人 佐藤栄作 田中角栄 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 中曽根康弘 竹下登

近衛文麿

近衛文麿公爵家の出身。インテリで、180pを越える当時の日本人として飛びぬけた長身、国民や各界からの人気も高く首相就任を待望された。都合3次にわたり政権を担当し、通算在任日数は1,035日と戦前の昭和の首相として最も長い。

当初より日米開戦に反対し、戦争末期には吉田茂と相談して上奏文を起草。「敗戦しても国体は護持できる。」と一日も早い終戦を天皇に訴えた。終戦後、国務大臣として東久邇宮内閣に入閣し、GHQから憲法改正を一時託され改正要綱をものした。しかし近衛は盧溝橋事件に端を発した日中戦争開戦時の首相であり、大政翼賛会を設立、日独伊三国同盟を締結した戦犯であるとの責任追及が起こり出す。逮捕命令後、出頭を拒否し服毒自殺を遂げた。

東條英機

東條英機対米開戦時の総理大臣、日本を泥沼の戦争に引きずり込んだ張本人として代表的A級戦犯とされる。風貌もいかにもヒール(悪役)といった感じだが、天才肌の軍人ではなく門閥もない出自の中、受験勉強を懸命に重ねてのぼりつめた努力家だったという。また連隊長時代、部下の再就職先探しに奔走したり、兵隊の食事に気を配ったりと、きめ細やかで真面目な性格も持ち合わせていたらしい。

陸軍大臣時、「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓を訓令として発したが、敗戦直後、自らこれを実践するかの如く占領軍の逮捕前に拳銃自殺を計るも、失敗。かえって「恥の上塗り」との嘲笑を招くことにも。終戦から3年後、東京裁判の結果、絞首刑に処される。

鈴木貫太郎

敗戦の詔勅 (玉音放送)鈴木貫太郎は終戦時の首相。もはや勝つ見込みのない戦局を終結させるべく、昭和天皇の強い要請により77歳という高齢にして就任する。貫太郎夫人の足立たかは天皇の養育掛。鈴木も天皇の侍従長を務め(侍従長時代の2.26事件で瀕死の重傷を負う)、天皇から実の父親のように慕われていたという。

戦争末期、天皇は和平の道を模索しながらも、軍部強硬派が徹底抗戦を譲らない。「天皇」と「大元帥」という天皇の二つの立場が、戦争終結の決断を困難にしていた。昭和20年8月の御前会議で、ポツダム宣言受諾派と降伏条件再照会派とで3対3に分かれたとき、「統治権を総攬する天皇陛下にすべてを委ねる」という鈴木の進言があって、遂に終戦の聖断が下ることとなる。

吉田茂

吉田茂 戦後日本の復興に力を尽くした大宰相の最大の偉業は、昭和26年のサンフランシスコ講和条約調印。英語の堪能な吉田だが、条約受諾演説はあえて日本語で貫くことをサンフランシスコ到着後に決め、チャイナタウンで巻紙や墨を買って、原稿をしたためたという。この講和会議が単なるセレモニーではなく、各国の思惑や駆け引きも加わって、成立か否かの息を呑むものだったことが上掲動画から理解される。

さらに条約締結の1時間後、今も形を変えて続く日米安全保障条約を一人で決断し、調印。東西冷戦の時代、安保によって日本の軍事費軽減を図り経済復興に注力するため、という吉田の深慮の末だった。ジョーク好きで、いつもユーモアを忘れなかったことでも知られる。

鳩山一郎

鳩山一郎 吉田内閣の総辞職を受けて、昭和29年暮れ、鳩山一郎が首相に座に就いた。遡る昭和21年の総選挙で自由党が勝利したとき、総裁の鳩山はいったん首相の座を手中にしたが、GHQによる公職追放の憂き目に遭い、鳩山は吉田に政権を託して蟄居する。追放が解かれたあかつきには、鳩山が総理の座を受け継ぐことが吉田と合意されていたが、吉田は鳩山の憲法改正、再軍備の動きを警戒して応じず、鳩山は脳梗塞に倒れたこともあって不遇をかこつ。

盟友三木武吉の暗躍があって鳩山は念願を達成するが、こうした吉田と鳩山の確執、すさまじい権力闘争は、『小説吉田学校』で克明に描かれている。鳩山はソ連との国交回復を実現して退陣した。

岸信介

岸信介 「昭和の妖怪」の異名をとった岸は、日米共同防衛の明確化を図った新安保条約の実現を目指した。しかし、米ソ対立が緊張化していたこの時代、安保条約によって日本が再び戦争の惨禍に巻き込まれかねないと、60年安保闘争が巨大な渦となって沸き起こる。全学連をはじめとするデモ隊が、機動隊の壁を突破して国会周辺で抗議集会を起こす。昭和35年6月15日には、東大生樺美智子がデモの騒乱の中、圧死するという事故も反対運動を激化させた。

追いつめられる岸だが、「(安保賛成の)声なき声が聞こえる」とひるまず、安保条約の成立を果たす。しかし直後、混乱の責任をとって退陣。闘争失敗の挫折感の中、左翼運動は新たな段階に進む。

池田勇人

池田勇人大蔵事務次官出身の池田勇人は「所得倍増計画」を旗印に経済政策を前面に打ち出し、日本の高度経済成長を実現した。池田は壮年期に天疱瘡という奇病に罹り、故郷に戻って5年もの闘病生活を余儀なくされている。その時に出会った満枝夫人の懸命の看病を受けて復活するが、夫人の回顧によると初めて出会ったときの池田は、全身白い薬と包帯だらけで、亡霊のような姿。絶望以外なにも持っていなかったという。

吉田茂の薫陶を受け、議員1年目で大蔵大臣に抜擢され、昭和35年に首相に就く。国民生活の向上に力を尽くすが、4年後、喉頭癌に冒され辞職した。「貧乏人は麦を食え」(実際にはこう直接的には言っていない)、「私は嘘は申しません」などの発言も話題になった。

佐藤栄作

佐藤榮作 歴代総理大臣中、最長の在位を誇り、沖縄返還を実現し、後にノーベル平和賞を受賞という経歴から、「名総理」の誉れ高くて不思議でないのに、あまりの長期政権に最後は国民の支持も完全に離れていたという印象が強い。新聞をはじめとしたマスコミからの批判も政権末期に厳しく受け、退任記者会見での新聞記者排除の振る舞いが論議を呼んだ。今その映像の中のイライラを募らせた表情、後味悪い会見の様子を見ると、「最後はボロボロ」との感が。ノーベル賞受賞時にも、日本国内では異論が噴出していた記憶がある。

しかしながら、池田内閣の後、経済成長を伸張させ、平和で安定した日本へ確固と導いたからこその長期政権だったのだろうと思う。

田中角栄

田中角榮田舎の土建屋出身の「角さん」が、裸一貫から宰相までのぼりつめ、「今太閤」として絶大な人気の中で総理の座に。それが、立花隆が昭和49年の文藝春秋11月号に発表した『田中角栄研究 その金脈と人脈』(もう一本が児玉隆也の『越山会の女王』)を契機として、あっという間に退陣に追い込まれる。常軌を逸した金権ぶりを暴いたこの論文の少し前に、同じ文藝春秋で、当時衆院議員の石原慎太郎が『君、国売り給うことなかれ』という角栄批判を寄稿していた。

釈明記者会見で田中は、「今(疑惑について)全部調べている。」と述べるも、結局何も発表しなかった。後に地検が押収した資料の中から、角栄側が調査した釈明資料が出てきたが、あまりに内容の乏しいものだったという。

三木武夫

三木武夫政界浄化に努めた「クリーン三木」という印象が定着している。田中角栄政権下の閣僚だったが、金権体質を批判して辞職。田中失脚後、少数派閥ながら福田、大平を退けて椎名裁定により首相になったとき述べた、「青天の霹靂」ということばが流行語になった。首相就任後、汚職問題の追及やロッキード事件の徹底究明を表明。田中前首相の逮捕を実行したが、自民党内の反発を招く。その結果、福田・大平・田中派の露骨な「三木おろし」によって退陣を余儀なくされた。

昭和前半、政界を巻き込んだ疑獄事件が頻発し、三木にも昭電疑獄造船疑獄で追及が及ぶが、いずれも嫌疑はほどなく晴れる。調べた検事が、三木のところに謝りに来たという話も伝えられている。真に清廉な政治人生を貫いた。

福田赳夫

福田赳夫小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」と宣言して派閥政治をすっかり衰退させたが、そもそも小泉氏は旧福田派の清和会に連なる。それにしてもかつて、日本国宰相の座を決定づけるものは何よりも派閥の力といえた。そして記憶に残るところで、派閥政治の「最盛期」はポスト佐藤の頃ではなかったか。

「三角大福中」と呼ばれる勢力が佐藤後継を争うが、実質的には田中角栄と福田赳夫の「角福戦争」。合従連衡に長けた田中の前に、福田は破れた。田中失脚後のチャンスも、「椎名裁定」により三木に譲るが、「三木おろし」によって遂に昭和51年、首相の座に。日中平和友好条約実現後、総裁選で田中派の後ろ盾を得た大平に破れ、「天の声にもたまには変な声がある。」との弁を残して退いた。

大平正芳

大平総理・福田前総理・三木元総理 三者会談昭和55年、衆参同一選挙戦の火蓋が切って落とされた直後、大平首相が入院先の病院で急逝した。朝のニュース番組で、現職総理の死を速報で伝える記者の声が大きく震えていたのを思い出す。あまりに突然の訃報に、記者も動揺していた。

そもそもこの選挙に至る過程が「ハプニング解散」と呼ばれる不測の事態であった。政権基盤の弱い大平内閣が、党内反主流派の足の引っ張りにあってまさかの不信任となり、解散総選挙に打って出た。大平首相の死に、民社党の佐々木委員長は悲痛な表情で、「この選挙期間中、一切の大平批判を封印する」と述べた。弔い合戦の様相を呈した選挙戦は、自民党の大勝利に帰し、鈴木善幸内閣が誕生した。

中曽根康弘

中曽根改造内閣成立ポスト佐藤の「三角大福中」の権力闘争の渦中にあって、有力勢力に擦り寄りたびたび変節しながら立ち振る舞う姿を評して、「政界風見鶏」と呼ばれていた。田中角栄に土下座して「私を総理にしてください。」と懇願したという話も。

結局田中派のバックアップを得て昭和57年に首相の座を手にしたが、就任後は国鉄、電電公社、専売公社の民営化という年来の課題とされた改革を成し遂げた。またレーガン大統領と「ロン・ヤス」関係を築いて、鈴木善幸首相の時に悪化した日米関係を良好化させた。失言もするが、風貌や弁舌が爽やかな印象を与えることもあって、国民の支持も高く在任1,806日という佐藤以来の長期政権を樹立した。今も御大として、教育改革や憲法改正を唱え続ける。

竹下登

竹下登 創政会結成首相退任後も、最大派閥領袖の威光で政界を支配してきた田中角栄に、反旗を翻す形で昭和60年2月に創政会を立ち上げた。田中に挨拶しようと目白御殿を訪れた竹下は、門前払いを喰う。直後、田中元首相は脳梗塞に倒れる。盛者必衰、世代交代の象徴的なシーンを目の当たりにする思いだった。

今、「10%」の数字も取りざたされる消費税。中曽根内閣が「売上税」の導入に失敗した後、その中曽根の指名を受けて昭和62年に総理に就任した竹下は、3%の「消費税」を実現させる。「ふるさと創生」「農産物輸入自由化」を行うが、リクルート事件の疑惑が発覚し短命政権に終わる。最終の支持率は、3〜4%という惨憺たるもので、「消費税なみ」と揶揄された。

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昭和34年

昭和ノスタルジアを演出したヒット映画、『ALWAYS三丁目の夕日』の続編では、昭和34年の東京下町が舞台とされたが、この年の最大のトピックは現天皇の皇太子明仁親王と正田美智子嬢のご成婚。婚約が発表された前年より空前の“ミッチーブーム”が起こり、4月10日の婚礼の儀を見るために爆発的にテレビが売れた。まだ都電が走っていた青山通りを馬車行列が進み、沿道には53万人の群集が詰め掛けたという。

この年、日産自動車が『ブルーバード』を発売。スタンダードタイプは69万5000円で、一般大衆にもマイカーが手に届き始める。世は「岩戸景気」に湧き、“戦後”に決別、高度経済成長時代と消費文化の到来が告げられながらも、一方でニュース映像に映る木造家屋が近代以前の貧しい時代のにおいを依然漂わせている。経済回復の要として団地を中心とした住宅建設が各地で進み、『団地族』という新語が生まれる。

世界のホームラン王、王貞治が早稲田実業から巨人軍に入団し、デビューしたのもこの年。1年目の本塁打数は7本。しかしそのうちの1本が、長嶋のサヨナラ本塁打で決着した劇的な天覧試合における同点ホームランで、ON砲初のアベックホームランとしても知られる。荒川コーチと再会し、一本足打法で開花するのは3年後になる。

月刊マンガ誌全盛時代に、初のマンガ週刊誌として『少年マガジン』と『少年サンデー』が創刊された。表紙はそれぞれ横綱朝潮と巨人軍長嶋だった。レコード大賞が創設され、水原弘の『黒い花びら』が第1回受賞曲となった。

 

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